昭和45年4月16日 朝の御理解



御理解第35節
 信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日元日の心で暮らし、日が暮れたら、大晦日と思ひ、夜が明けたら元日と思うて、日々嬉しゆう暮らせば、家内に不和はない。

 家内に不和のない事が信心とさえ云われます。家内に不和のないおかげを頂きたい。その為には元日とか大晦日ゆうやうなお互いが心にかけ通しにかける。今日は大晦日だからと、大晦日とゆう事に焦点を置いて、物事を考える。今日は元日だから、元日早々いやな事があってはならないと、元日の心でとゆう事は、そのやうに心にかけ通しにかけておる。だから少々の事があっても、辛抱したり、努力し合っていく訳です。それで不和のない百を過ごす事が出来るとゆう事になるのであります。
 そこでここの三十五節で大事な所は、大晦日と思うたり元日と思うたりする。そうゆう事が一番大事なやうな感じがするですね。この御教えは‥‥‥。
 ところがね、それは只波風が立たないとゆう事であって、嬉しゅう、又家内に不和がないとゆうのではない。只、辛抱し合っていくとゆうだけの事なんだ。 ですから、元日の気持ちや大晦日の気持ちでおるとゆう事が大事な事ではない事が分かりますね。この三十五節の御理解では。
 どこが一番大事かと云うと、一番初めに云うてあります。信心は日々の改まりが第1やと、おっしゃる。これが一番大事。信心は日々の改まりが第1じゃと。
 私共は、ここのところはあんまり大事にせずに、毎日元日の心で暮らす。毎日大晦日の心で暮らす事が大事なやうな思い方をするところにですね。いつも今日は、元日のやうな心でおらんならん。大晦日のやうな気持ちでおらんならんと云うて苦しいとゆう事になるのじゃないかと思う。日々の改まりこそが第1なのじゃ。
 そんなら、日々の改まりが第1だとゆうところに焦点が置かれますと、どうゆう事になるでしょうか。そう元日と思わんでも、大晦日と思わんでもです。自ずと、その辺のところが、いわゆる元日の思いで、大晦日の思いでとゆうのは思わんでも、そうゆう心が自ずと出来てくるのじゃなかろうかと、こう思う。 そして結果としては日々を嬉しゆう家内に不和はないとゆうおかげを受けさせてもらうとゆう事。信心は家庭に不和の無きが元だと、不和の無いとゆう事が信心だと、教えておられますから。そのところにおかげが有る。そうゆう家庭におかげが育っていく。
 そこです。どうしても、やはり段々おかげを頂いて、家族中の者がひとつ勢を揃えて信心をさせて頂くとゆう事が一番大事なやうに思います。家庭に不和の無い嬉しゆう日々を過さして頂く為には、家族中の者があげて信心を、させて頂くとゆう事が大事。
 次にはね、三十七節に有りますやうに、生きておる間は修行中じゃと、家族中の者が信心をさせて頂いて、しかもその一人一人がです。生きておる間は修行中じゃとゆうやうなですね。ひとつ思い込みをもって日々に当たらせてもらう。
 いかに家族中で例えば、信心を到しておりましてもです。皆んながバラバラな信心をしたんでは、おかげになりません。たとえ家の中に問題があったにしろ。和賀心、和賀心と云うたらもう問題は無くなる。いや、そこから、おかげの道が開けてくる。その位のおかげは頂きたい。
 同時に生きておる間は修行中じゃとゆう、いわゆる修行精神とゆうものをいつも、心の底に持っておらなければならん。
 修行精神ではなくて、自分が楽をしようと思うたり、自分の云うておる、しておる事が本当で、人の事を嘘のやうに思うたり、人の手元足元ばっかりながめて、自分の手元足元をながめなかったり、これではいくら信心しよっても、家庭に不和の無い嬉しい毎日を過ごす事は出来ません。
 昨日、4時の御祈念にかかるちょっと前でしたが、御結界につきましたら、末永さんと博通さんが二人でここへ出て参りましてから、改まって何かお届けが有る模様です。何事だろうかと思うたら、事務所の方で新しい札といつも両替えしておりますが、以前はもう本当に合楽位ろくそない所はない、自分で金庫の中へ手を入れて替えていくのですよ。もういつも、金が二千円、三千円足りん、無くなるのですよ。多い時には一万円も足らないとゆう時が有るのです。私はいつも足らんだけは貸してやろうと云うて貸してやる訳です。
 けれどもねぇ、こげん金銭の事をろくそにしたんじゃ、いかんよて。これはやっぱり事務所におる者が責任を持ってやらなきゃいけん。だからね、誰かがちゃんと責任を持って。自分勝手にさせんぞ‥‥‥。
 それはなる程、信心の世界って美しいなぁと、ある人は思うかもしれません。お金を自分で両替えしていきよる、やっぱり信心しよんなさる人は違うと、もし信心の無い人が見たら、そうゆう事が出来ておる事がひとつの美風のやうに、美しい事のやうに思うかもしらんけれども、無くなったんじゃ、どうも出来ない。
 誰だって初めからごまかそうとか、自分の金は入れずに、向うのだけ持って来るといった事で、お初穂をしようとか、お賽銭をしようとか、とても有りもしまいし、有りませんよね。けれども、そのどこかで間違うていきよる。
 そこでその金庫にひと筆書いてくれ、各々に勝手にとってもらう事は出来んと、書いとくとゆうので書いてあげましてから、それから、まあ段々事務所の人がやるやうになった。
 ところが、それでも又三千円足らんと、こうゆう訳です。それから、ここ何日か前かは、いよいよ金庫にカギをかけるやうにした。そして各々が替えられないやうにした。そして各々が替えられないやうにした。ところが今度は昨日は、一万二千円足らんと云う。それ前にはずっと皆んな話し合って検討して間違ってはおらんか、と云うて一生懸命検討したらしい。調べてもみたらしい。ところが結局いつもあそこには三万円ずつ置いてあるのですよねぇ。
 それで昨日は末永さんがいつも責任を持ってる訳ですが、私がいつかは戻しますから、と云う訳ですよ。それで昨日は末永さんがいつも責任を持ってる訳ですが、私がいつかは戻しますから、と云う訳ですよ。それで、私が申しました。あんたが戻したからと云うてどうなるか? 私がその金を多いから、少ないからと云うて、私に利害関係がある訳じゃない。私に戻したって何になるか。問題はそこに、そうなるその根本のところがいけないのであって、と云う。私は四時の御祈念をさせてもらいました。根本のところはどこにあったかと。根本のところは結局事務所の人でもない。信者さんでもない。根本のところは私にあったんだけど、私が詫びるより他にないとゆうこと。
 御神前に出らして頂いて、その事を願った訳じゃなかったけれども、座って頭を下げた途端に、私が頂きます事が、黒田武士を踊っているところを頂いた。この脇に槍を持って片一方には大きな大盃を持ってきまっておるところを頂く。 どうゆう事だろうかと思うた。いわゆる日の本号とゆう槍ですねぇ。いわゆる「酒は飲め飲め飲むならば、日の本一のこの槍を、飲みとる程に飲むならば、これぞ真の黒田武士」とゆう歌詞ですがねぇ。
 どうゆうやうな事であっても、自分が飲んでしまうとゆうやうな、とゆう事も有りましょうけれども、私はこの盃をですねぇ。こうゆう風に持ってるですが。いわゆる飲んだ後に盃にお酒が入っていない。自分だけがよか気しょくになっておる。自分だけがよか気しょくになっておるとゆう事。自分はひとつもそれには悪くないやうに思うておる。それにたずさわっている人達だけが、いけないやうに思うておる。そうゆう例えば考え方の中には、私は日々に嬉しゆうなんてんゆうものは生まれてこないと思う。
 云うならばです。本気でひとつ。私がいつも申しますやうに、本当に日本一有り難い私にならせて頂こうと念願しておる。その日本一有り難うならして頂きたいとゆう程しの願いを持っておるお前がです。その位の事も有り難い、勿体ない。で、のみこみきらないとゆう事は、おかしいいじゃないかとも。又は、自分だけがよか気しょくになって、もう次ぎに、人が有り難き勿体なきを下さいと云うても、もう盃には一滴も入っておらんやうな状態では、どうにもならんじゃないかとゆう風に頂いたやうな気がするのです。黒田武士のそれを頂いて、そうすると、誰がよいも悪いもない。結局私の不行届けであり、私の力不足だとゆう事になってくる訳です。誰あれも云う事はいらん。責める事もいらん。只そうゆう事になってくる事の為の、お詫びと同時に日々の改まりを、本気でしていくより他にない。いわゆる信心は日々の改まりが第一じゃと。
 その日々の改まりとゆう事を抜きにしてです。いかに元日の心になったところでです。それは本当な事じゃないと、日々の改まりから、初めて元日の心も生まれてき、大晦日の心も生まれてくるのだと。その為にたとえて申しますやうに、私共が一生が修行じゃとゆうやうな思いを持っておかなければならん。さあ、そのお金が足りなかった事を、又、私が聞いたからと云うて、私が又、誰彼を詮索したり、聞きたてたり、するところに、誰が悪い、彼が悪い、そこに私は問題が有ると、いわゆる不和になっていく元がそこに有ると。
 それをね、例えばね、ここで云うなら中心であるところの私がです。私の不行届きであったとしてです。本気で詫びる気持ちになり、その為に本気で修行させて頂こうとゆうものがあったら全然それは問題ではなくなってくる。そして、日々の改まりとゆうところに、本気でお繰り合わせを頂き‥‥‥。
 私は今日、この三十五節から、いよいよ日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら、元日と思うてと、ゆうところにばっかり今迄、こんの御教えのところに焦点を置いておったやうに思う。
 ところが、毎日、毎日元日のやうに思われん。忘れてしまう。毎日、毎日大晦日のやうには思われない。心がけとっても‥‥‥。
 なる程、大晦日と思い、元日と思や、やはり朝からぶっすり、がっすり云う事はやだし、又、そこに争いが起こったりしたりすることは元日早々縁起でもないとゆう事になるから、お互いがこらえ合い、辛抱し合うておる。今日は大晦日だから、と一生懸命、精進努力してです。あれも片付け、これも片付けとゆうやうに、スッキリした気持ちにならせて頂く為に、大晦日のやうな気持ちでするけれども、仲々そのやうな訳にはいかん。
 ですから、そうゆう元日やら大晦日の気持ちに本当にならせて頂けれるその根本になるものは日々の改まりとゆう事に第1の焦点を置かなければならん。そしてその問題がたとえ有ってもです。その問題は云ならば、和の心にその問題がなくなるとゆうところ間で和を追及していくとゆうことが、どうゆう事かと云うとです。生きておる間は修行中じゃとゆう根本精神をです。信心させて頂く者の根本のところに、生きておる間は修行中じゃと、思わしてもろうてです。その問題の根本になるところをです。よくよくたどらせて頂いておったら、誰彼じゃない。子供の不調法は親の不調法。家内の不調法は、主人の不調法。店員の不調法は店主たる者の責任としてです。そこからです。私の改まりが足りなかったことが気付かせてもらい。私がお詫びするより他ないとゆうところから生まれてくる和。これが和。だからその和には問題がなくなってくる。
 そうゆうですね、私は生き方をもって信心を進めていくところをです。日々嬉しう暮らせれる。家内に不和のない有り難い日々が約束されるんだと、こう思います。
 どうぞひとつ本気で。信心はもう日々の改まり。寝てもさめても改まるとゆうことに、心を使わせて頂いておくとゆう信心。そこからは自ずとね。元日の心も生まれてこようとゆうもの。大晦日の思いもです。そこから頂けてくる大晦日であり、元日でもなければ、いわゆる本当の意味に於いての、日々に嬉しゅう暮らすとゆうことは、とても難しい。只元日と今日は思うて、今日はいっちょ、本気で大晦日と思うて今日は頑張るぞと、云うて頑張るだけはですね、そんなに頑張られるものじゃない。
 それだけでも、いくらかはいいでしょう。今日は元日じゃから。もう人が腹立てるやうな事は云わんぞとか、争い心やらはもう起こさんぞとゆう風に、つとめるだけでもいいけれども根本のところに、それが有るもんですから、ちょっとまぜくられると、ぽつと、こう濁ってしまうやうなもんです。うわずみが澄んでおるだけのやうなもの。けども、その根本的なところがです。その事によって修行させてもらい、その事によって改まるとゆう事になればですむしろ、こうゆう事があったおかげで、私が初めて気がついたとゆう、お礼でも自ずと出ろうとゆうもの。
 誰を責める事もいらない。自分自身がです。そこから新たな日々の改まりが第1とゆう事は、もう確かに日々に改まっていくからこそ、そこに今迄なかったさらな心とゆうものが生まれてくる。
 信心は日々さらだと。三代金光さまがおっしゃっておられましたが、そのさらな心こそが、私は元日の心であり、大晦日の心だとゆう風に思います。そこからね。本当にひとつ、家内に不和の無い日々、形の上ではもう、こっそりとも云わんでも、心で争っておったらもう同じ事、只辛抱しとくだけでは駄目。心から日々嬉しゅうとゆうところ、嬉しゅうとゆうのは表面だけでは嬉しゅうなられん、心の底から何とはなしにニコニコしたいやうな、嬉しい心が湧いてくるやうな、おかげ。
 信心は家庭に不和の無きが元なりと、信心の元は不和の無い事が元だとおっしゃる位ですから、ここんところにいよいよ焦点を置いて、日々の改まりに、いよいよ精進させて頂かねばならんと思いますね。どうぞ。